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関東神社巡り 二つの磯前神社

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それぞれの神社の御祭神は次のとおり 大洗磯前神社  主祭神・・・・大己貴命  配祀神・・・・少彦名命 酒列磯前神社  主祭神・・・・少彦名命  配祀神・・・・大己貴命 それぞれ主祭神と配祀神が共通かつ逆転しているのは、互いに縁故が深いということだ 『日本文徳天皇実録』によると、斉衡3年(856年)に常陸国鹿島郡の大洗磯前に神が現れたとされ、大己貴命が大洗に、少彦名命が酒列に祀られ、両社の創建となったと伝えられている 延喜式神名帳にはそれぞれ「大洗礒前薬師菩薩明神社」、「酒烈礒前薬師菩薩神社」となっており、成り立ちも含めて極めて仏教色が強く、国津神(大己貴命)と天津神(少彦名命)、神仏がそれぞれ習合している 多分昔は仏教色ギラギラの神社だったと思う だが、戦乱等により荒廃・廃絶されていた両社は、水戸光圀の手によって造営された 多分のその時に仏教色は排除したのだろう なぜなら黄門様は仏教色のある華美な神社を嫌うからだ ・大洗磯前神社 ・酒列磯前神社 大洗磯前神社で気になったのは、神さまの上陸地とされている海上の鳥居の近くに次のような注意書きがあった あれ?由緒書には石が変化したとか人に取り憑いたとかあったけど違うの?上陸ってことは鹿島や香取のように神さまが海から来たの?それとも太陽信仰の名残?とか思ってしまった かと思えば、磐座が境内から外れたところにあったのだが、 この大洗磯前はかなり古い時代(縄文・弥生)から祭祀場だったんだなと思った また、大洗も酒列も社叢がジャングルのようだった 南方から渡来してきた渡来人・民族には、温暖な大洗・酒列のような太平洋沿岸地域は住みやすい環境だったのではないだろうか 太平洋を目の前に仰ぎ、太陽の恵みを受けていたここ大洗・酒列は原始信仰の祭祀場だったが、ヤマト王権の侵略を受けて神さまを上書きされたのかもしれない また、田中角栄のように国土を開発・発展させていく大己貴命(大国主)と、様々な技術をもった渡来人の少彦名命が合体・協力していく様は、まさに日本(日高見国)は現在の世界の先端を行ってたのだなと思う いずれにしても、ここ大洗・酒列は日高見国の重要拠点だったのかもしれない

関東神社巡り 茨城の橿原神宮

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何故か茨城にある橿原神宮 こぢんまりとした神社だが、実は奈良にある橿原神宮よりも創建は古い というのも現在奈良にある橿原神宮は明治23年創建で、この茨城にある橿原神宮の創建は奈良時代の和銅年中(708-715年)ということだ 御祭神は神武天皇、桓武天皇、崇道天皇(早良親王)となっている   この地を治めていた平国香の先祖を辿ると桓武天皇にあたり、その関係の深い親王である早良親王の二柱を平氏一族の守護神として祀ったのだろう 早良親王は桓武天皇の皇太弟にあたるが、藤原種継の暗殺に関与した罪に問われ、皇太弟を廃された 絶食して没した事になっているが、事実上の処刑だと思われる しかし、その後不吉な事象(皇室関係者の病気、死亡、疫病の流行等)が相次いだため、早良親王の鎮魂のため崇道天皇と称されることになった だが正式な皇位継承をしてないため、歴代天皇には数えられていない この神宮の名前は以前は柏原大明神といわれていたらしい 柏原というのは桓武天皇の別名が柏原天皇なので、名前からいっても桓武天皇が主祭神のような気もする ただ、桓武天皇と崇道天皇はあとから合祀(延長5年《927》)され、その時から柏原大明神となったとのことなので、やはり最初から神武天皇がお祀りされていたようだ また、境内にある由緒書によると、元々は石崎村升原( 茨城町中石崎 )にあったものを室町時代に湊村宮山町(明神町)に遷座した しかし江戸時代に炎上したため最終的にここへ遷座されたことになっている ここからは勝手な妄想だが、最初に升原にあったものは涸沼沿いにあったことから、海沿いの重要拠点だったと思われる しかしその後海が引いたことから、中心地が那珂湊付近に移ったためこの付近に遷座したのだろう だが、なぜ神武天皇が祀られていたのかはよくわからない この神社に関しては資料や文献があまりないようで、情報が乏しい --------------------------- 橿原神宮については、 Wiki に以下のようにある 初代天皇である神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。 そもそも奈良の橿原神宮は明治の時代に