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関東神社巡り 忌部の足跡1

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南房総の神社巡りは、阿波忌部の痕跡を巡る旅でもある 阿波を開拓した忌部一族がさらなる繁栄を求めて、この房総半島に上陸し、土地を開拓したと言われている 千葉の最南端のこの地は四国の阿波(あわ)にちなんで同じ名称の安房(あわ)だ また忌部一族が房総全域を開拓し、その地が麻がふさふさに育つことから総国(ふさこく)となり、時代が下って上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)と別れた 安房の房の字もふさなので、統一された名称ということがわかる そんな天富命率いる忌部一族が最初に上陸したといわれるのが駒ヶ崎神社だ 神社にはとくに由緒書らしきものはない 神社というよりは祠といった感じ 鳥居越しに太平洋を見る 黒潮に乗って阿波からこの地に上陸したのだろうか 伊豆半島や伊豆大島にも忌部の足跡があるようなので、いずれそちらにも行ってみたい 駒ヶ崎神社からちょっと上がったところにあるのは布良崎神社 鳥居の真正面に富士が見える この布良崎神社の由緒書には、5世紀に御祭神である天富命が四国の忌部族を率いて上陸したとあるが、神武天皇の勅命とあるため皇紀2600年とは矛盾してしまう 個人的には皇紀2600年というのはファンタジーと思っているので、納得できる部分もある 男神山と女神山? 天富命は天布刀玉命の孫にあたる 天布刀玉命は天孫降臨の際、瓊瓊杵神に従い随伴した神のひとりで、天児屋根神(中臣氏、藤原氏の祖神)とともに祭祀を司る神とされる その天布刀玉命に従ったとされる神は天日鷲命、手置帆負命、彦狭知命、櫛明玉命、天目一箇命の五神 阿波忌部の祖神は天日鷲命となっており、天富命は天布刀玉命直系であることから、主従関係、上下関係も明白だ 天富命は阿波忌部(天日鷲命)ということではない また、天富命は讃岐忌部(手置帆負命)や紀伊忌部(彦狭知命)も率いていた事が他の神社伝承からもわかっているので、イコール忌部ということでなく、忌部を統括する立場の人であったようだ 忌部というのは祭祀を司る部民であるため、天布刀玉命に連なる人々は共通の信仰(神道)を基盤としていたことがわかる 祭祀を司る部民だとは言え、やっていることは祭祀だけでなく、農業、漁業、建築土木などにも通じていたため、神武天皇(ヤマト王権)からの信任も厚く、東国開拓を任されたのだろう と、なると神話における建御雷神、布都御魂の東征神話との関連

関東神社巡り 横須賀の神々4

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願いが叶うという叶神社 乃木坂工事中の中でヒット祈願として訪れていた神社であることは知っていたが、乃木坂46ファンだからと言って別に聖地巡礼として参拝したわけではない 叶神社は東西に分かれている 元々江戸時代に浦賀を東西に分けた時に、これまでどおり同じ神徳をと願った住民の願いによって東側にも分霊を行ったとのことだ したがって、西側の叶神社が元宮であったということになる まずは東の叶神社 こちらの奥ノ院には幕末に勝海舟が咸臨丸で米国出航前に断食修行をした場所が残っている 長い長い階段を上った先に奥宮がある 神明社 東照宮 奥ノ院(本殿) 奥ノ院全体がやけにひっそりとしているのは幕府側の神社とされたからだろうか ただ元々叶神社自体は石清水八幡宮から勧請された神社ということで、御祭神は誉田別尊(応神天皇)となっている 八幡神社でないのは不自然な気がする 続いて西側の叶神社 こちらが叶神社の元宮となる こちらの神社の方は寺っぽいので、そばにある東福寺と習合された影響だろうと思われる この神社を建立したのも分覚上人という僧侶なので、当然と言えば当然か 叶大明神となっている 摂社で祀られている御祭神で面白いものが見つかった 大鷲神社があり、天日鷲命が祀られているのだが、これが元鎮守ということだ ここにも忌部氏の痕跡があった だが、日本武尊が前面に出ている事から、海南神社と同じように忌部系の祭神は薄められた可能性が考えられる だが、由緒にはそのようなことは何も記述はない 叶神社は両方とも海岸線に近いことから、かなり古くから存在し、元々は違う御祭神が祀られていたのだろう それにしても日本武尊とはいったい何者だろう?ヒーローなのか、侵略者なのかという疑問が沸々と湧いてきた 参考) 叶神社

関東神社巡り 横須賀の神々3

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以前(2009年)自転車であちこち走り回っていた頃、走水神社の神職者さんの行列を見かけた 撮影はE-520 + 12-60mm F2.8-4 当時はあまり神社というものに興味は無かったのだが、この光景がやけに心刻まれていた 時は流れて2024年、古代史散策と神社巡りが趣味となり、再び走水神社に行った 走水神社は創建年代は不明 御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱だ  日本武尊の東征のため、房総半島に渡る足がかりの地となる横須賀、そして走水神社 古代東海道はここから海を渡り、房総へ向かうということらしい 房総へ渡る時に暴風雨にあい、それを鎮めるために犠牲となった弟橘媛命 その伝説はここ横須賀だけでなく対岸である房総側にも多くある 何しろ木更津や君津の地名の由来も日本武尊が弟橘媛命を偲んで、「キミサラズ」が訛ったという話もある 奥ノ院に行くと面白い摂社があった 古代稲荷社ということらしい このかたちの稲荷社は見たことがない 向かって左から諏訪社(タケミナカタ)、神明社(アマテラス)、須賀社(スサノオ) 多分ここが元宮なのだろうと思ったが、国津神であるタケミナカタが祀られているというのは若干違和感がある 高台にあることからこの地は昔から津波や高波からの避難地であったと感じた 井戸も存在することから、水も豊富な場所であったことから、ここは日本武尊が来る前から地域住民が集まる重要な拠点だったと感じた ここ走水神社には河童も祀られている 河童たちは散々いたずらして住民たちを困らせてきたが、大津波の時に罪滅ぼしということで、住民達を守るために河童達は奔走したが、虚しくも河童達はみな滅びてしまったという綺麗な伝説だ 奥にあるのが水神社 河童が祀ってある 正直言って怪しい伝説だなと感じた 多分河童は漁業や水運に精通した元からいた先住民、または先に開拓した人々のことだと思う ヤマト政権側の入植者達は先住民たちを蹂躙したのだろう そういう意味ではこの伝説は怨霊信仰のひとつではないかと感じた  そういえば以前トレッキング趣味であった時に奥多摩や丹沢に行くとやたら日本武尊の名前も見かけた 御岳山をはじめ奥多摩

関東神社巡り 横須賀の神々2

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事前に地図を見ながら神社巡り計画をたてる 目をつけるポイントはその神社の規模や名称だ それ以外は地形を調べる とくに海沿いは縄文海進の海岸線との関連から重要と考えている 湊のように人が集まるような場所であったか、津波のような自然災害から避難できるような場所か、等々、古くから存在する神社であるかどうかは地形が大きく関係すると思っている そして神社境内内に井戸があり真水が確保されていたかも現地に行った時に重要視する点だ 三浦半島の先端部にあたる海南神社はその自分の趣旨に沿った神社だ 個人的な好みでいうと、ゴテゴテときらびやかで神仏習合バリバリの感じは好きじゃない 海南神社は比較的新しい神社なのかと思いきや、海岸線の名残から考えると古くから存在している聖跡であることは想像できる 主祭神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)とその后である盈渡姫(みつわたりひめ)、そして地主大神(じぬしおおかみ)が祀られている 相殿神については神社でもらったしおりとWikipedia等で異なった記述が見られる しおりでは天照大御神、豊宇気比売大神、早須佐之男大神、菅原道真公、天之鳥船命、筌龍弁財天となっている Wikipediaや境内の電子案内版、神社のHPでは、天照大御神と天之鳥船命はなく、代わりに天日鷲神が記述されている なお、神社HPでは地主大神は相殿神とされている かと思えば、境内の案内版ではしおりとは矛盾のない表記となっている また主祭神である藤原資盈公は「筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着」とあるが、皇位継承問題での謀議による讒言云々とあるので普通に考えれば近畿エリアから出発したと思うが、九州に行くつもりが三浦半島に来ることなどあるのだろうか? これは一族もろとも東国(三浦半島)へ逃亡したのだと想像した もしそうだとしら、海賊を平定したとかの話も藤原資盈公に都合よく取り込まれたものかもしれない また天日鷲神と天之鳥船命の扱いが曖昧なのも気になる 天日鷲神と言えば、言わずと知れた安房を開拓した阿波忌部の祖神 房総半島へ渡る拠点の三浦半島、横須賀付近にも強い影響を残していたのかもしれない もしかするとこの神社は、  ・もとは天日鷲神を祀った神社だったのではないだろうか?  ・地主大神とは天日鷲神を封じ込めるためのものではないだろうか? 天之鳥船命の唐突な登場も不自然だ 天日鷲神も

関東神社巡り 横須賀の神々1

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横須賀で神社巡りをしてきた 横須賀のイメージは戦艦三笠、自衛隊、米軍、海、横横道路、不良、格好いい街並みという感じだ 神社というか古めかしく歴史がある場所というイメージが無い しかし、ヤマトタケルが房総半島へ渡る時の経由地であり、古代東海道があったことはあまり知られていない 古代から連々と海沿いの繁栄が続いており、意外に歴史は古いようだ 最近ヤマトタケルに関する本を読んだ事から、そのヤマトタケルが房総半島に渡る経由地としての横須賀に興味を持ち、神社巡りをしてきた 1日目は西側から廻って海南神社方面へ向かうことにした まずは荒崎海岸にある住吉神社と熊野神社へ 事前に地形で確認したところ、荒崎海岸には何ヶ所か縄文海進時でも陸地だったところがあり、そこに神社があったことが確認できた だけど、住吉神社は見当違いだったようだ 古い時代から存在していたと思われるのは熊野神社の方だった この熊野神社には珍しく祓詞が掲示されていた こういうあたりにも歴史を感じたりする きちんと読んだ事がなかったので勉強になった ちなみに祓詞の内容は以下のとおり 掛けまくも畏き伊邪那岐大神 《口に出してお名前を申し上げるのも恐れ多い伊邪那岐大神様が》 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 《筑紫(九州)の日向の橘の小戸の阿波岐原という場所で》 御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 《禊祓いをなされた時にお生まれになった祓戸の大神達よ》 諸諸の禍事罪穢有らむをば 《さまざまな災厄・罪・穢れがございましたら》 祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし召せと 《それらを祓い清めてくださいと申し上げることをお聞き届けくださいと》 恐み恐みも白す 《畏れ多くも申し上げます》 参照)神様が宿るくらし  https://note.com/kamiyado/n/n0137a8c77da8 時間もあったので、荒崎海岸も散策してみた まず岩石の模様が面白い 現代人の自分でも特別な場所感がある ましてや古代人ならなおさらだろう 岩が波のよう