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関東神社巡り 横須賀の神々4

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願いが叶うという叶神社 乃木坂工事中の中でヒット祈願として訪れていた神社であることは知っていたが、別に聖地巡礼として参拝したわけではない 叶神社は東西に分かれている 元々江戸時代に浦賀を東西に分けた時に、これまでどおり同じ神徳をと願った住民の願いによって東側にも分霊を行ったとのことだ したがって、西側の叶神社が元宮であったということになる まずは東の叶神社 こちらの奥ノ院には幕末に勝海舟が咸臨丸で米国出航前に断食修行をした場所が残っている 長い長い階段を上った先に奥宮がある 神明社 東照宮 奥ノ院(本殿) 奥ノ院全体がやけにひっそりとしているのは幕府側の神社とされたからだろうか ただ元々叶神社自体は石清水八幡宮から勧請された神社ということで、御祭神は誉田別尊(応神天皇)となっている 八幡神社でないのは不自然な気がする 続いて西側の叶神社 こちらが叶神社の元宮となる こちらの神社の方は寺っぽいので、そばにある東福寺と習合された影響だろうと思われる この神社を建立したのも分覚上人という僧侶なので、当然と言えば当然か 叶大明神となっている 摂社で祀られている御祭神で面白いものが見つかった 大鷲神社があり、天日鷲命が祀られているのだが、これが元鎮守ということだ ここにも忌部氏の痕跡があった だが、日本武尊が前面に出ている事から、海南神社と同じように忌部系の祭神は薄められた可能性が考えられる だが、由緒にはそのようなことは何も記述はない 叶神社は両方とも海岸線に近いことから、かなり古くから存在し、元々は違う御祭神が祀られていたのだろう それにしても日本武尊とはいったい何者だろう?ヒーローなのか、侵略者なのかという疑問が沸々と湧いてきた 参考) 叶神社

関東神社巡り 横須賀の神々2

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事前に地図を見ながら神社巡り計画をたてる 目をつけるポイントはその神社の規模や名称だ それ以外は地形を調べる とくに海沿いは縄文海進の海岸線との関連から重要と考えている 湊のように人が集まるような場所であったか、津波のような自然災害から避難できるような場所か、等々、古くから存在する神社であるかどうかは地形が大きく関係すると思っている そして神社境内内に井戸があり真水が確保されていたかも現地に行った時に重要視する点だ 三浦半島の先端部にあたる海南神社はその自分の趣旨に沿った神社だ 個人的な好みでいうと、ゴテゴテときらびやかで神仏習合バリバリの感じは好きじゃない 海南神社は比較的新しい神社なのかと思いきや、海岸線の名残から考えると古くから存在している聖跡であることは想像できる 主祭神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)とその后である盈渡姫(みつわたりひめ)、そして地主大神(じぬしおおかみ)が祀られている 相殿神については神社でもらったしおりとWikipedia等で異なった記述が見られる しおりでは天照大御神、豊宇気比売大神、早須佐之男大神、菅原道真公、天之鳥船命、筌龍弁財天となっている Wikipediaや境内の電子案内版、神社のHPでは、天照大御神と天之鳥船命はなく、代わりに天日鷲神が記述されている なお、神社HPでは地主大神は相殿神とされている かと思えば、境内の案内版ではしおりとは矛盾のない表記となっている また主祭神である藤原資盈公は「筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着」とあるが、皇位継承問題での謀議による讒言云々とあるので普通に考えれば近畿エリアから出発したと思うが、九州に行くつもりが三浦半島に来ることなどあるのだろうか? これは一族もろとも東国(三浦半島)へ逃亡したのだと想像した もしそうだとしら、海賊を平定したとかの話も藤原資盈公に都合よく取り込まれたものかもしれない また天日鷲神と天之鳥船命の扱いが曖昧なのも気になる 天日鷲神と言えば、言わずと知れた阿波忌部の祖神 房総半島へ渡る拠点の三浦半島、横須賀付近にも強い影響を残していたのかもしれない もしかするとこの神社は、  ・もとは天日鷲神を祀った神社だったのではないだろうか?  ・地主大神とは天日鷲神を封じ込めるためのものではないだろうか? 天之鳥船命の唐突な登場も不自然だ 天日鷲神も同じく鳥という

関東神社巡り 房総のタカミムスビ

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南房総で見つけた不思議な神社 その名も高皇産霊(タカミムスビ)神社 例によって房総で色々な神社を参拝していたのだが、この神社はとくに参拝予定は無かった ただ、前日に南房総の隣にある館山市にも同じ名前の神社があって、そこには参拝した 館山市の高皇産霊神社は町の中にポツンとある小さくて素朴な神社だ ここは別名が高井神社とも言われている 高皇産霊尊をお祀りしている神社だと高木神社と言われていることから、タカギからタカイへ訛ったのかも知れない いずれにしても、墨田区の高木神社同様に神仏分離で寺から切り離されたものと思われる そのため、創建の由緒も元々の御祭神もよくわからない そういうこともあって、南房総千倉にある高皇産霊神社も造化三神の一柱を祀っているとは言っても、比較的近年の創建された神社で見る価値は低いのでは?という思いもあって、とくに参拝は予定していなかった しかし、色々予定が変わった事もあって時間が空いてしまったので、ちょっと寄ってみることにした ところが.... まずは道の駅から眺めた光景 ※画面中央の銅葺きの建物 何しろその大きさに驚いた 初めて見た時には「え、あれ!?」と思った おまけにどこにもこの神社に関する情報がない 急いでネットで調べてみたけど、たいした情報がない ナビの案内ではとても車では行けそうもないが、なんとかかんとか隣の高塚不動尊までは行けそうなので、そこまで行って歩いて行くことにした   高塚不動尊 ここはここでとても趣のあるお寺でした 畑の中を進んで到着  拝殿の前の鳥居は神明鳥居 一の鳥居は明神鳥居 神社の造りは神明造 シンプルでありながら重厚さを感じさせる 境内は綺麗に整備されており、稲荷の祠もあったが、とくに狐やらなんやらゴチャゴチャとしたものは置かれていなかった その分由緒などを記すものもなく、なぜこんな町のはずれに立派な社があるのかが全くわからなかった ただ、ふと鳥居を通して海岸方面を眺めてみると... ここはけっこうな高台であることがわかった 個人的に神社というものの成り立ちのひとつは、人が集まるところと思っているので、太古の昔に人が集まり賑わいのあった場所、つまり湊であったと感じた 人間の営みに真水は欠かせないため、古い神社には必ずと言っていいほど井戸や池、綺

関東神社巡り 側高神社

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ご祭神は秘密という側高神社 側高神社の名前はYouTubeの番組で 茂木誠 さんがさらっと触れた程度だが、御祭神が不明だと言うので気になっていた 香取神宮の近くにあるということで、機会があれば行ってみようと思っていた そして今回、茨城の神社巡りのついでに参拝をした この側高神社の位置づけはとても高いものであったようだ 由緒書によると、側高神社は香取神宮の第一摂社であり、創建も神武天皇18年となっており、香取神宮と同時に存在していたとのこと 香取神宮の由緒は側高神社の由緒でもあるという また香取神宮の御祭神である布津主神は側高の地に、鹿島神宮の御祭神である武甕槌神は高天原にそれぞれ天神を祀られた  ※ちなみにここで言う高天原とは、鹿島市に実在する 場所 だ 各々の神宮から東北東約2.5Kmほど位置にそれぞれ存在している また、高千穂や大和地方から東北東の位置にこれらの神宮及び側高と高天原が存在し、それを御歴代の天皇が祀っていた これは古代の日本にとって関東が重要であるということなので、とてつもない情報のような気がする 御祭神については聞いてはいけないということだったので、御朱印を頂く時に神主の方にはとくに質問はしていない ただ、由緒書にはこう書いている ・祭神  天神(あまつかみ)・・・造化三神   →天之御中主神、髙皇産霊神、神皇産霊神 他の祭神についての説明もあって、そこには伊邪那岐神、天照大神、神功皇后の名前も見られた また、 Wiki では相殿神として天日鷲命、木花開耶姫命、武雷命、経津主命の四柱が合祀されたとある その他、経津主命の后神という説もあるらしい また、 Shrine-heritager というサイトで見た情報によると、明治神社誌料という資料では、御祭神が天日鷲命となっていた いわゆるメジャーな神さまが祀られており、これを秘密にする理由がわからないが、あえて言うなら天日鷲命という忌部の祖神がいる でも常総地域を開拓した忌部氏の神さまが祀られるのは当然かなと思えるので、これも特別なこととは思えない だが、一歩踏み込んで考えてみると、過去鹿島神宮と香取神宮の記事でも書いたが、中臣氏の存在が関係して

関東神社巡り 鹿島神宮

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鹿島神宮に初めて参拝した時、あまりの存在感、荘厳さに惹かれてしまった 神社参拝の趣味が始まったのはこの鹿島神宮が最初だった 自分はあまりスピリチュアルな感性もないので、鹿島神宮で運が開いたとか気を感じるとかは思ったことはない Youtubeではそんなスピリチュアル動画で溢れているが、個人的にどうでもいい話だなと思っている 本殿、奥宮はともに荘厳で美しい 個人的にいちばん惹かれたのはこの広い参道だ ここは静かで空気も綺麗だ 調べたところ、この参道は夏至のレイラインになっているそうだ 参考) https://www.youtube.com/watch?v=IlvSTtGrP1s 要石が存在しているあたり、縄文時代の磐座信仰もあったように思える ※さらっと伊勢神宮の心の御柱とか大事なことが書いている 縄文的で原始的な信仰も僅かに感じられる、鹿島神宮、そして香取神宮の面白いところだ ちなみに武甕槌が暴れるナマズを抑えるという逸話は後世の創作だろう この鹿島神宮はもともと先住民の太陽信仰や磐座信仰の祭祀場で、武甕槌が祀られたのは後世の事なんじゃないかと思った というのも、この鹿島付近は経津主、武甕槌が東国征伐時に最初に上陸した地ということらしい 上陸は太平洋側か縄文海進時にはもっと内陸部に海が広がっていた霞ヶ浦かはわからないが、両方とも鳥居が存在している 上陸後はこの鹿島神宮、香取神宮あたりを東国征伐の拠点としていたのだろう 占領した証として先住民の祭祀場を奪って住民に王朝交代を印象つけさせたが、この鹿島神宮の場所が殊の外良い場所であったことからそのまま利用したのだろう なにしろ鹿島神宮の場所は夏至のレイラインや中央構造線の通る場所 太古の人がただならぬ場所と崇めていたのだろう 個人的な勝手な考えだが、多くの神社や寺は元々何らかの祭祀が行われていた場所で、後から勢力を伸ばした側がそこを奪い、今までの神さまを退け新たな信仰を住民に与え、統治を行ったのだと思っている 全国に多くある八幡神社や稲荷神社、そして仏教寺院は統治者の都合でオセロゲームのようにパタリパタリとひっくり返ったものと思っている 政治にとって信仰とは民衆支配のツールにすぎない ただ